古市憲寿
(ふるいち のりとし)
1985年東京都生まれ。慶應義塾大学環境情報学部卒業。東京大学大学院総合文化研究科博士課程在籍、慶應義塾大学SFC研究所上席所員の傍ら大学時代の友人が興した有限会社ゼント執行役を務めている。
著書に『希望難民ご一行様』(光文社新書)、『上野先生、勝手に死なれちゃ困ります 僕らの介護不安に答えてください』(光文社新書)がある。
巷に氾濫する「かわいそうな若者たち」という論調に対し、毅然と異を唱える「若者」が現れた。それが「絶望の国の幸福な若者たち」の著者・古市憲寿さんだ。
古市さんは東大大学院社会学総合文化研究科博士課程に在籍する若き社会学者。凡百の「若者論」を否定する古市さんに、私たちの「若者」に対する身の処し方を聞いてみた。
自分たちの二〇歳の頃を思い出してみて欲しい。
――二〇〇七年くらいから、各企業の人事担当者から「若い人たちと話が通じない」という悲鳴に近い訴えが続出するようになってきました。いわゆる「ゆとり世代」といわれてる若者たちの問題ですね。それを巡る「ゆとり世代論」がたくさん世に出て来ましたが、若者の側から発言する人はいなかった。そこに登場したのが古市さんの『絶望の国の幸福な若者たち』でした。古市さんを若者の代表であると位置づけるわけではないんですが、古市さんのおっしゃる「当事者性」という観点から、「ゆとり世代」の問題をどのように見ているのかというところから伺いたいと思います。
今、企業の中で「若い人たちと話が通じない」って声が上がっていると言われましたが、それはけっこう昔から言われてることですね。今日たまたま読んでいた池田信一さんの『新入社員』(日経新書)という本があるのですが、出版は一九八一年です。その当時の若者を論じた本なんですけれども「若者のことが上の世代には全然わからない」と書いてありました。八一年に書かれたものですから、当時の新入社員は六〇年前後生まれで、今五〇歳くらいの方です。上の世代というのはちょうど団塊の世代にあたります。その世代の人が、最近の若者は指示をしなければ何もせずにじっと指示を待っている。大人しくて従順で、言ったことしかやってくれないと嘆いている。今と言われてることがあんまり変わらないんですね。
若者論というのは二つの角度から考えることができると思います。一つは実際に若者が変わりつつある部分について論じたもの。もう一つは若者自身は何も変わってないのに、論じる側が年を取って世の中についていけなくなっただけなのに、それは若者の特徴として語ってしまうもの。それが混在してしまって、しかもその二つは恐らく分離不可能なので、結構難しいことになってるんだと思います。
だから若者の側から年長者の人にお願いしたいのは、自分たちの二〇歳の頃を思い出してほしいということですね。当時の自分たちは、本当に今の若者たちとは違っていたのか。指示待ち世代ではなかったのか。指示を待たずに能動的に動けていたのか。コミュニケーション能力があって、年長者ときちんと会話ができていたのかということを振り返って見てほしい。「近頃の若者は……」と短絡してしまうのではなく、自分の過去を思い出すだけで、世代間ギャップの解決の糸口の方法は見つかるのではないかと思うんですね。
――確かに六〇年代に「現代っ子」と呼ばれていた若者たちに関しても同じような批判がありました。ただ、あの当時は高度経済成長を前提にして企業が成立していましたので、受入側がブレていない。ところが現在は企業側に建前と本音があって、企業側の論理がダブルスタンダードであるために、上の世代と若者たちの乖離の構造が複雑化しているように気がします。
そうですね。たぶん企業の形態とか産業構造が変わったことはすごく大きいと思います。社会学者のリチャード・セネットは企業組織を軍隊型組織とMP3型組織というふうに分けています。昔の経済成長を前提とした時代にはトップがいて、その下にそこそこ使える兵士がいて、トップが指示した方向に対して様々なリソースを投入して向かっていけばいいという、すごくわかりやすい軍隊型の組織でよかった。まさに東京電力、国鉄が典型的ですが、線路を敷いたり電線を引いたりというようなわかりやすい目的に向かって団結して向かって行く組織で良かったのです。でも九〇年代くらいを境にそうはいかなくなった。この領域にリソースを投入したならば業績が上がるという成長神話が崩れた時点において、軍隊のようなピラミッド型の組織ではもう立ち行かなくなる。その中で個々人が、それこそ本田由紀さんが「ハイパー・メリトクラシー」の時代と呼ばれているように、コミュニケーション能力も必要だし、自分たちで考える力も必要とされるようになった。目まぐるしく変わっていく現実に対して、自分でどんどん先手を打っていかなければならない。そんな能力が求められてきている中で、企業自体も変わってきてるということは、確かに大きいと思います。
グローバリゼーションという時代の流れの中で。
――本当に「ハイパー・メリトクラシー」がある人間しか生き残れないとすれば、そういう能力のある人たちにとってみれば選択肢が広がりつつある一方、下の人間はどんどん生きづらくなっています。
九〇年代以降のグローバリゼーションが叫ばれる流れの中で、ブルーカラーを必要とする産業がどんどん空洞化していって、仕事が極端に減っていったというのは大きいと思います。だからそこで働ける高卒の仕事もどんどん減っていって、彼らに働ける場は主にサービス業しか残されていない。昔だったら、高校卒業して手堅くブルーカラーで仕事をするとか、もしくは商店街で働くというような選択をしていただろう人もサービス業で働かざるを得ない。対人折衝能力がない人は本当に辛くなっている。
これは海老原嗣生さんがよくおっしゃっていることですけども、大卒者よりも実は高卒者の方がよっぽどかわいそうなんです。大卒者にとっては新卒一括採用とか就活は、当然つらいんだろうけれども、まだかろうじて仕事があるし、そもそも大学に行かせられるくらいの資金を持つ親がいる家というのは、実は相対的に比べてみたらそこまで不幸ではないのかもしれない。
どちらにせよ、若者にとって「そこそこ働ける仕事」が少ないというのは辛いですよね。この前たまたま飛行機で隣になった子が台湾の子だったのですが、「日本では九時から始まって五時で終わる正規の仕事はあまりない」と話したら、すごく驚いていました。そんなに働いていつ友達と遊ぶのかと、いつ家族と過ごすのかと言うのです。今の日本では、特に都市部だと一般職であっても九時ー五時できちんと終わるような仕事はどんどん減っていますよね。
だから、もう完全に割り切って派遣とかフリーターで短い時間だけ働くというような選択をする人も出てくる。でも、フリーターとして好きな分だけ働くか、長時間労働に耐えてバリバリ働くかという二極化した選択肢しかないのは、若者当事者側としてはしんどいという気はします。
――二〇代のうちの長時間労働に耐えられないのは、今の若者たちの時間のタームが非常に短いということもあると思います。要するに、未来を担保にして、「今は苦しくても……」という訓練の仕方が有効じゃなくなっている。そこで企業側は対応に苦慮しているという一面もあります。
それは、まだ今の社会に余裕があるからですよね。それこそ集団就職時代の「働かないと農村にも帰れない、食べていけない」という時代であれば、今の若者のように「やりがい」とか「モチベーション」ばかりを仕事に求めません。だけど、現時点で若者のそれに対応するためには、完全に割り切ってゲーム的にタスクを全部切り分けて、やりがいをバーチャルに与えてあげてやってくしかないのかなって気はしますね。
ワタミ的な働き方というのは批判も多いですが、会社側が少ないリソースの中で長く働いてもらおうとするのであれば、「今の単純作業も実はもの凄く大きな会社の夢の一部であって、だからこういう単純作業にもすごい意味があるんだよ」と教え込む。これは一つの賢いやり方だなと思います。労働はみんな嫌がるけれども、ゲームに関してはもの凄い仕事量でもみんな喜んでやりますよね。それは仕組み作りがきちんとしているからだと思います。ゲームの方が楽しくて現実でつまらないんだったら、現実をゲームのように組み替えるというのも割り切った解決策の一つというふうに思いますね。
――そのためには、こちら側の現実感覚を変えていかなければいけない、と……。
生まれた時からゲームがあって、ゲームだったら単純作業もできるという若者には、ゲーム的な張りあいを現実に組み込んでいくというのは一つの方法かなと思います。かなり極論ですけどね。「それが人間らしい労働か」と怒る人もいるかもしれませんが、そんなことを言ってる間に日本人の雇用がどんどん外国人に取って替わられる。そんな差し迫った状況を考えれば、人間らしい労働とかやりがいの搾取とかいった議論をしてる場合じゃない気がするんです。
キャピタリズムは常に新しい場所を探します。日本が世界の工場として人件費が高くなりすぎたら、次は中国、次はベトナム、アフリカとどんどん移っていく。生産者側もどんどん変わっていくし、消費者も新しいものを見つけていく。「資本主義が終わった」みたいな議論がよく聞かれますが、そんなわけはありません。ただ、それがすでに終わって成熟期に入ったと見えてしまうくらい日本は豊かということなんだと思います。僕たちは先行世代から多くのものを受け継いできました。もちろん、そうした有形無形のインフラは朽ちていきます。それがどれだけ持続可能かわかりません。その時、若者を含めた全ての人の働き方は変わらざるを得ないのではないでしょうか。
新卒一括採用は「悪」なのか。
――現在の就職活動の仕組みについてはどう思いますか。
今の就活の仕組みは、企業にとっても若者にとってもお互いにとってすごく大変なことだと思うんですよ。若い子たちは徹底的に自己分析をして、企業に求められる人材を目指して、本当に無理して自分を偽ってまで「こんな仕事がしたいんです」とアピールしながら何個も会社を受け続ける。でも、よく考えてみれば企業側にしても、そこまでピンポイントでやりたいことがあるという学生を採ってしまったら、逆に入社後が大変なわけですよ。実際、特に大企業であればあるほど個人の興味に応えることことはなかなかできない。その意味で、新卒採用が企業側にとってもものすごい負担になっているという現実もある。このミスマッチが解消されればいいなと思うんですけど、これは多分急激には変わらない。だから若い子たち、僕のちょうど五歳下くらいの大学生たちを見ていても大変だとは思いますが、その大変さも何と比べて大変かを知るだけでも、ずいぶん変わってくると思います。
たとえば新卒一括採用は日本だともの凄い悪だとか、こんなの止めるべきだというのが一般的ですけど、逆に新卒一括採用がないヨーロッパの国々というのは二〇歳~二四歳の若年失業率がだいたい二割から三割くらいある。二〇代が万年失業状態にある社会なんですね。もうどうしようもなくなってヨーロッパでは若者向けの雇用保障がどんどんつくられていった。逆に今の日本の論調を見てみると、若年失業率の高さというものを飛び越えて、ヨーロッパみたいに新卒一括採用なくしてしまえばいいんじゃないと言っている。それがちょっと個人的には違和感があります。逆に若い人も新卒一括採用で就活しないという考え方も当然あっていいと思うのですけど、日本の制度には日本なりの良さもあるので、そのこともきちんと考えて見ることも大事だと思います。
企業の有効求人倍率を見てみても、大企業に関しては二〇一〇年は〇・四七倍と高倍率ですけど、中小企業は四・四一倍。学生一人を企業四社が奪い合ってる状況です。結局学生側もどこの企業でも応募できるから大企業や有名企業にばかり目がいってしまって、中小に目を向けていない。そういうミスマッチがすごく起こってると思うんですね。大企業だけじゃなくてもうちょっと中小企業も含めて、魅力ある企業を見つけられるような手段がもっと増えていけばいいし、学生側も大企業ブランド志向をなくした方がいいのかなとは思いますね。
たとえば一九七〇年の学生人気企業ランキングのトップ二〇のうち、だいたい半分くらいは潰れてるかほとんど潰れそうになっている。当時トップの方にあったJALとか、スーパーマーケットブームに乗った西友とか長崎屋とか、今ではもうなくなってしまった企業がトップの方に入っていたりする。大学生側もイメージで企業を選びすぎです。みんなから羨まれるような企業に入るとか、CMで知ってるBtoCのお菓子メーカーというようなところばかりを受けている人も多い。そこはもう少し視点を広げれば学生側も楽になるのではないかなとは思いますね。
ただ、それでも大企業に入りたいという気持ちは理解できます。特に高学歴でトップの大学に行った人ほど、自分はこれだけ勉強頑張ってきたし、これだけやってきたんだから大企業入れて当然だという思いも当然あるだろうと思います。ただ五年先とか一〇年先とかを考えてみた時に、本当に大企業に入ることがいいのか、中小のそこそこ働けるような企業に入るのがいいのか、本当に今わからなくなっている時代だと思います。
――今日よりも明日が良くなっていくということが信じられないということですね。だから時間のタームが極端に短くなっていく。
あえて世代論的に話せば、僕は八五年生まれで、物心ついた時にはバブルが終わっていて不況しか知らない。日本が不況であることがデフォルトだし、日本が良かった時代というのは映画の中でしか知らない。その中で希望とか高らかに掲げられてもそこにはあまりリアリティーが感じられないですね。
でも、統計的に見ても二〇代の中で「これからのあなたの生活はどうなっていくでしょう?」と聞いた時に今のような状態が続いていくだろうと答えるのが六割くらい。今よりも悪くなるだろうと答えたのは一割くらいしかいないんですね。逆に四〇代、五〇代だとこれが三割くらいになるんです。だから若い人たちはこれから悪くなるともあまり思っていない。つまり危機感みたいなものは、そこまでないと思いますね。僕自身もそうなんですけど、日本はこれからヤバくなっていくだろうなみたいな漠然とした不安はあるけれども、かといってそこまでの危機感はない。上野さんとの本でも話しましたが、家族がいる、親がまだ元気ということが大きいと思います。ただ、親はどうしても老いていきますからね。
「大きな物語」喪失の時代のリアリティ。
――リアリティが持ちにくいのは、高度成長期に社会全体で持てた「大きな物語」としての希望ですよね。個人が当事者性としてのリアリティが保てる希望の持ち方はないのでしょうか?
それは、「来週、友達と遊びに行く」とかのレベルでいいと思うし、逆にそれ以外は難しいと思います。だけど、それが社会に開かれていくという可能性もあると思います。
『絶望の国の幸福な若者たち』のなかでも書きましたが、自分のことよりも社会のことを考えたいという二〇代が右肩上がりで増えています。僕の知り合いでも、青山で農家が直接持って来た野菜を販売するようなマーケットを開いたりとか、若者自身が自分たちで何か面白いことをやろうと決めて、それが結果的に人助けになっているようなイベントが広がってはいます。
だから世の中をガラッと変えるような希望はなくても、日常の地続きとしての社会に開かれた活動はだいぶ広がってきている。しかも、そこに参加するだけだったらそれほど能力は問われない。企画・運営側じゃなくて、何か楽しそうだからマーケットをのぞいてそこで野菜を買うとか、そういう形で日常と地続きで社会を変える方法は、逆に昔よりも潤沢に登場してきていると思います。
――もうすでに「大きな物語」が無効な時代にあっては、そのようなリアルな地続きの手触りのあるものを掴んでいくことの積み重ねの中にしか未来は見えてこないということでしょうか。
「大きな物語」は今でも現れるし、これからも現れるでしょう。ただ、それはどうしても一瞬で消えてしまうと思うんです。
たとえば三・一一というような、日本を根底から揺さぶるような「大きな物語」が起ち現れても、結局半年経ったらほとんどの人は日常に戻ってしまう。被災地で実際に被害を受けて家をなくした人や、小さいお子さんを抱えて放射性の問題に直面しているような親御さんたちを除けば、ですけど。
今の社会にどんな大きな物語が起ち現れても一瞬で消えてしまうと思うんです。だから、それ自体があんまり効力がないというか、あまりにもすぐにその他の情報に飲み込まれてしまうので、それを求めてもあまり効果はないんじゃないのかなという気がします。そもそも「大きな物語」に関しても昔からあったのかさえ疑問で、それは結局知識人とか東京の真ん中にいる人だけの話しだったんじゃないかなという気もちょっとするんですけれども。
たとえば、六〇年代、七〇年代のいわゆる「大きな物語」があった時代にしても、日本の農村に住んでいた人はどこまで日本の経済成長だとか、日本の「大きな物語」的なものの中に巻き込まれていたかといったら、あんまり巻き込まれてない気もするんですよね。その人たちにはその人たちなりの当事者のリアリティーがあって、農協をしてとか、春に何植えて、秋に何植えて何を刈入れてという、それこそ日常というものを日本中に送っているだけであって、その大きな物語があるかないかというのも、実は中央にいる知識人とかある程度本を読む人だけのリアリティーだっだんじゃないかって気もしているんです。
――そうした「大きな物語」とは別に、就活を前にした学生は企業の中の物語を共有していかなければなりません。でも、今は「何で共有しなきゃいけないんですか?」という学生たちが多くなっています。
それは企業側に頑張っていただくしかないですよね。自分たちが本当に魅力的な学生に応えて、ここだったら働きたいと思う企業にしていただくしかない。学生側からすれば、物語は共有したいけれども、それがあまりにも薄っぺらくて、言ってることとやってることがあまりにも違ったら、それこそ飛び出したくもなるでしょう。
ソーシャルビジネスの可能性。
――そうした状況下での選択肢に、新しい働き方としてのソーシャルビジネスみたいなものは加えられませんか?
確かに都市部で、しかも高度なコミュニケーション能力があるような層に限定すれば、ポツポツと生まれてきてはいると思います。
ソーシャルビジネスといえば、即「社会を変える」みたいな、すごく大きなイメージばかりが注目されますけれども、若いうちはそれこそ人脈も経験もリソースも何もかも不足しているので、僕は若い人に対して起業がすべて善であるかのように勧める政策には反対なんです。むやみやたらに起業したところで上手くいかないケースの方が圧倒的に多い。それなのに起業こそ希望であるというような形で過度に煽られることには、違和感を感じます。
ただ、それとは別にたとえばシェアハウスのような形も、一つのソーシャルビジネスの形と言えるかなとは思っています。
僕の友達がやってるシェアハウスは渋谷に大きな家を一軒借りて、そこに三〇人くらい住んでるんですけど、一人あたりの家賃がだいたい三万円くらいでいい。もちろん個室もないような感じなんですけど、家賃が三万円ですから生活費も入れてだいたい五万円くらいで暮らせる。元々はそこに安らぎとか、ちょっと疲れて帰って来た時に誰か居てほしいなと住み始めた子が仕事を辞めてしまう。そして「五万で暮らせるんだから、月に五日間くらい働いて、後はそこで好きなことをしよう」と絵を描いたりとかして暮らしている。そこでは、仕事もお互い融通し合ったり、Twitterを使って仕事を探したりしている。今Twitterで「急募!」と検索すると、その時に必要とされるデザイン周りの仕事とかが結構みつかります。そういうのを使って、そんなに稼げるわけではないけれども、それこそ月に五、六万円を稼いで、それを持ち寄ってみんなで都会で暮らしている。これも既存の企業社会に大してオルタナティヴを占めているという意味で、社会の変え方の一つだと思います。つまり、法人を作ってすごい地球規模な大問題を解決するだけが社会を変えることではなくて、既存の会社で働くのが嫌だといって、そこから下りてしまうこと。それも一つの働き方であり、これからのモデルの一つであるような気はしていますね。
――でも、それは二〇代だからできることであって、三〇代になっても可能な生き方でしょうか?
確かに家族を持つというような年齢になると辛くなってくるでしょうね。そもそも、本質的な問題は日本の若年層向けの居住政策が貧困だということにあります。二〇代向けの公共住宅が日本にはほとんどない。そうした問題を脇に置いたまま、貧困差の中でシェアハウスが過剰に煽られることは確かにすごく問題だとは思うんですよ。
ただ、高度成長期においては家族を形成して子供つくってということが当たり前でしたけれども、それがどこまで当たり前なのかということに関してはまだわからない。たぶん、大抵の人は今まで通り企業に入って、お父さんになって、お母さんになって子供をつくってということをすると思うんですが、そうじゃない人も一部では、ちょっとずつ増えていくだろうと思うんです。
――企業の形態とか産業構造が変化すると同時に、従来の家族の形や暮らし方も変わっていくということですか?
その可能性は感じています。
――なるほど。
ゆるやかにいくつかのコミュニティを越境する。
僕自身の話をすれば、僕も友達と会社をやっているんですね。やっぱり、大企業に入ったら二〇代はすごく働かなければならないのに、その大企業だっていつまでもつのかわからない。それがすごくバカらしく思えたから、自分たちで会社やっているというのもあるんですけど、それだけではないんです。僕の周りの会社をやってる人たちを見てみても、いわゆるホリエモン的にガツガツ活動するのではなくて、自分の生活を守るために自分たちで会社をしていますという人がいます。自分でNPOをやっていて、その活動と仕事を両立させたいから会社をやって自由な時間をつくってるとか。もっとも、これはいろんなリソースに支えられてるもので、当然誰もができるわけではない。高学歴者のネットワークだったり、プログラミングができるとか、ある種の専門性も必要です。そんな特殊な条件下でたまたま成立しているようなものなので、「これが新しいモデルですよ」と大声出して言うことはできない。ただ、起業家にまではいかなくても、自営業者みたいな働き方はあると思うんです。上野千鶴子さんもおっしゃってますけども、ひとつの会社にずっと居座り続けるんではなくて、複数の会社から数万円単位でお金をもらうというやり方もある。さっきのシェアハウスの例で言えば、少ない家賃の所に住んで、好きな仕事とお金をもらう仕事を分けながら、幾つかの所に働き口を求めるという、ある種フリーエージェント的な働き方は広まっていくし、広まらざるを得ないのではないでしょうか。
――企業で正社員として「社畜」になるのではなく、生活のなかの「自分のベース」を持ちながら、働くということですね。
もちろん、多くの学生は企業の中で働いて行かざるをえない以上、企業の論理を身につけていくことは必要です。たとえば、「時間を守る」というような。それは企業人として守るべきだけれども、別にその人がTwitterとかで仲間集めてご飯食べようって時には待ち合わせの時間なんて関係ない。そうやって「会社の顔」「友達との顔」みたいな切り分けを学んでいけばいい。
一方で、フェイスブックなど「会社の顔」と「友達との顔」が曖昧になる空間が増えてきています。Twitterのダイレクトメッセージで仕事の依頼が来るなんてことも増えた。だからゆるやかにいくつかのコミュニティを越境しながら、それぞれに自分の顔をグラデーションように持ちながら、できるだけに無理をせずに生きていく。そんな風にみんなが、あまり無理をせずに生きて、働いていける社会になったらいいと思います。
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ハイパー・メリトクラシー
東京大学教授 教育社会学者の本田由紀氏による造語。近代日本社会では学歴社会といわれ、客観性の高い能力が求められてきたのに対し、ポスト近代においてはコミュニケーション能力をはじめ、独創性や問題解決力といったより人間力が求められており、そのような社会を「ハイパー・メリトクラシー化する社会」と呼んでいる。
海老原嗣生
株式会社リクルートエージェント ソーシャルエグゼクティブ、株式会社リクルートワークス研究所 特別編集委員。「雇用のカリスマ」と呼ばれ就職・雇用に関する著書多数。
上野さんとの本
東京大学元教授 上野千鶴子と古市氏による共著『上野先生、勝手に死なれちゃ困ります 僕らの介護不安に答えてください』のこと。