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自己紹介

みなさんこんにちは。朝日新聞社の林と申します。よろしくお願いいたします。

本日は日本編集制作協会という、いわば編集のプロの方々に向かって、電子出版時代の編集のあり方についてお話しするという、非常に難易度の高い依頼を頂戴いたしました。この「編集教室」の他の登壇者の顔ぶれを拝見しますと、いずれもそれぞれの世界で、しっかりとした業績を挙げられた方々ばかりで、正直、気後れがしてしまいます。

自己紹介は、画面でさっと済ませてしまいますが、ご覧になっていただければわかるように、私は、誰もが知るベストセラーを手がけたこともなく、人さまに自慢できる肩書もなく、誇れるような派手な実績も上げておりません。その意味では、「なんで私が?」という気がしないでもありません。


デジタル・トランジションの経験

とはいえ、私が、おそらく他の登壇者の誰よりも直接的に、身をもって体験したであろうことがあります。それは、アナログからデジタルへの編集の移行、という経験です。

英語で digital transition、「デジタル移行」といいますが、メディアの世界では、洋の東西を問わず、今、仕事の進め方やビジネスのやり方を、アナログからデジタルへ、どう移行させるかが、大きな課題となっています。

私は、1993年に出版の世界に足を踏み入れたのですが、入社当時は、まだワープロの活用が始まったばかりで、原稿は、原稿用紙に手で書いていました。写真は銀塩フィルムで撮って暗室で現像していましたし、支局には、紙の原稿をテキストに打ち直す「パンチャー」という職業の方がいらっしゃいました。

その後、あれよあれよという間に、デジタル化、オンライン化が進み、原稿執筆はワープロからパソコンへ、写真もフィルムからデジタルへ移行し、今や記事に動画をつけたりするのも、当たり前になってきました。パンチャーさんという仕事は、なくなりました。

電子出版の話なのに、何か別の話をしているようですが、そうではなくて、実のところ「電子出版」というのは、こうした「デジタル移行」の一つの例に過ぎない、というのが私の考えなのです。

人によっては、「デジタル移行」を、もう少し大きく捉えて「デジタル・ディスプラプションdigital disruption」と呼んでいます。こちらは、単に仕事のやり方、お金の稼ぎ方が変わるだけでなく、産業の定義自体が変わる、という含みがあります。

「デジタル・ディスラプション」とは何でしょうか? 「デジタル」はわかりますが、「ディスラプション」とは?

一般的には「破壊」と訳している本や記事も多いのですが、実は私は、これは誤訳だと考えています。これが誤訳だということは、今日の話の核心でもあるので、後で詳しくお話しすることにしますが、disruptionの辞書的意味は、「断絶、混乱」なので、ここでは「デジタル断絶」とでも訳しておくことにしましょう。

ともかくも「デジタル移行」とか「デジタル・ディスラプション」とか呼ばれる過程が、現在進行中だとされているわけです。そして、私は、キャリアの初期に、幸か不幸か、この過程を一通り経験させてもらいました。

最初の週刊誌の編集部では、さきほど申し上げたように、手書きの原稿から出発しましたが、その後ワープロ、パソコンによる入稿に移りました。

次に創刊に携わった月刊誌で、紙の雑誌の編集と平行して、ウェブサイトの立ち上げと管理、CD-ROMの制作の仕事をしました。

立ち上げたウェブサイトは、日本の出版社で初、といわれたものでした。当時はブログやCMSといったツールはありませんでした。そのため、イチからHTMLを打ったり、ページをアップロードしたりしていたのです。一文字でも打ち間違えれば、エラーの嵐です。

CD-ROMの制作も大変でした。まだ通信環境が貧弱だったので、ウェブサイトをまるごとCD-ROMの中に収録したのですが、サイトはUnixベースだったのに、CD-ROMはMS-DOSベースでして、ファイル名を8文字、拡張子を3文字のMS-DOS形式に直さないと、収録できなかったんですね。何千もあるファイルと、そのファイルへのリンクを一つ一つ手で修正したりして、徹夜の連続でした。

しかし、怪我の功名と申しましょうか。残業をなるべく避けるため、このときプログラムや正規表現というテキスト処理の技法を覚えたことが、その後の仕事、あるいは仕事のやり方の転換に大いに役立ちました。つまり、ささやかではありますが、私はこの時点で、一種の「デジタル移行」を体験したのです。


紙の世界に戻ってみると……

その後、創刊した雑誌がつぶれ、私は、もう一度紙の雑誌や書籍の編集の現場に戻りました。ところがいったんデジタルの経験を積んだ目で見ると、紙の出版物の編集には、かなりの無駄や不合理があるな、と感じるようになりました。

たとえば、表記統一。漢字の開く/閉じる、送り仮名の送り方、漢字や数字の表記の仕方などを一冊の本の中、あるいは一章の中で首尾一貫させる作業です。これを、当時は――たぶん今も基本的にはそうだと思いますが――紙のゲラの上で、赤鉛筆とか赤ボールペンで修正を入れ、それをDTPのオペレーターさんや編集者が、一字一字データに反映させる。これが日本全国の編集現場で、当たり前のように行われています。

しかし、デジタルの目で考えると、これはとても不合理です。いったんデジタルにしたものは、デジタルのまま処理した方が、いろいろと都合がいい。

そもそも「一括処理」、つまり一つの基準に基づいて、何かをいっせいに処理するのは、コンピューターの最も得意とする領分なのに、そこを人力でこなしているのが不合理です。

次に、「転記」の問題があります。校正者の赤字と著者の赤字などを突き合わせて、編集者がどの赤字を反映するかを判断していると思いますが、その課程で、何度か転記をする必要が出てきます。この際に、間違う可能性がある。

そして、「反映」の問題があります。赤字がきちんと入っていても、その文字を入力するときなどに、入れそこなう可能性があります。間違った結果をまた印刷して、再度直しの指示を入れたけど、それが直っておらず、校了直前まで、同じ場所の直しを繰り返したりします。

さらに「転用」の問題があります。新聞、雑誌での連載を書籍にまとめ、さらにそれを文庫版にまとめ直すときに、その都度、組版とゲラ出し、編集、校正のやり直しをしています。これってウェブから見ると、なんて無駄なことをしているんだろう、という感想しか思い浮かばない。

世の中には、無数の画面の大きさのディスプレイがありますね。スマホやタブレットのような小さなものから、スタジアムに据え付けられた巨大なものまで、サイズのバリエーションは膨大です。

ウェブを表示するためのブラウザにしても、Internet Explorer、Edge、Chrome、Firefoxのようなメジャーなものもあれば、デジタルサイネージや専用端末向けのブラウザもある。OSも、Windows、Linux、macOS、iOS、Androidなど、いろいろあります。

そうしたハードウェア、ソフトウェア、OSの違いを気にせずに、一度作ったらどの表示デバイスでも、基本的には同じように表示できる。それがウェブ(HTML)です。

もちろん、表示や機能に凝ると、いろいろ工夫が必要ですが、少なくとも、イチから打ち直したりはしていないわけです。

ところが、紙の出版物の場合、メディアがかわる度、かなりの手間をかけて、データを作りなおしている。イチから打ちなおしているケースも、ままあります。

今、電子書籍を紙と同時に刊行する「サイマル出版」が、かなり普及してきましたが、たいていは、紙本が校了した後に、DTPのファイルから改めてデータを取り出して、電子書籍を作っている。

「電子化」と言われていますが、DTPデータはもともと電子データなのに、それをコピペして別のファイルを作ることを「電子化」と呼んでいるのです。よく考えると、ちょっと変ですよね。

「伝達(配達)」の問題もありますね。著者や校正者にゲラを送り、それに各々が赤字を入れ、そのゲラを宅配便等で送ったり受け取ったり。またデザイナーさんとも、アナログでやりとりをしていたりします。いまや世界中で日本だけだと言われていますが、ファクスも多用されています。

遠隔地への情報伝達手段が、電話と郵便が中心だった時代なら、他に手段はなかったでしょうが、今やコミュニケーションの大半は、電子ネットワーク上でされていますよね。そうした時代に、書籍や雑誌の制作だけが、徹底的に紙ベースで、極端にアナログ。昔からほとんど変わっていないのです。時間もかかるし、エコではありません。

これはどうみても不合理だと私は思いまして、少しでもこの違和感をなくそうと、個人的にいろいろ取り組みをやりました。2005年くらいの話です。

まず、デザイナーさんや校正者さんとのやりとりは、できるだけクラウド化しました。宅配便やバイク便は基本的に廃止し、クラウド経由で受信してもらうことにしました。校正者さんへはゲラをPDFで送り、可能であれば、赤字もPDFに直接入れてもらうようにしました。

次に、誤字脱字の修正、、表記統一等は、できる限り、入稿前に行うことにしました。sedというプログラムと正規表現を使えば、「売り上げ」「売上げ」「売上」あたりは、簡単に統一できます。直しが入ったあとも、赤字を書き入れるのではなく、当該部分のテキストを、ブロックごと差し替えることを基本にしました。

もちろん複数の表現の可能性があるもの、著者の意図を確認する必要があるものは、特別な記号を付けて残しておきます。

目次、索引なども、本文にマークを入れることで自動生成できました。こうしてテキストをある程度整えた後に入稿しました。

もちろんDTPソフトにもこのような機能はあるのですが、編集者やオペレーターさんの力量や使いこなしによって、出来上がりに差がついたり、別の方がいじると、データの作りが乱れたりします。トラブルを未然に防ぐには、なるべく元のテキストで処理した方が便利です。というよりは、なるべく制作工程の「上流」で処理した方が、後々の手間やコストがからなくてすみます。これはデジタル出版の、鉄則ともいうべき原則ですね。

こうして私は、書籍の制作を、個人的にかなり合理化しました。編集のプロセスを可能な限りデジタル化することで、一冊あたりにかかる時間もコストもかなり減らすことができました。

しかし、他方で、こうした仕組みを他の方に使っていただく試みは失敗しました。原稿などのやりとりは、アナログのワークフローが残ってしまいました。クラウドサーバも使いこなしてもらえなかった。

つまり個人的な自己満足のレベルに留まってしまい、「ルーチン化」できなかったということです。


再びデジタルへ

その後2009年に、再度デジタルの部署に戻るのですが、その時、改めてデジタルの側から、アナログの出版プロセスを眺める機会がありました。

配属された部署は、携帯電話向けのニュースサイトに、新聞記事を再加工して配信するのが仕事だったのですが、新聞の出稿用データベースからひっぱってきたデータには、新聞独自の外字が入っていまして、それが携帯電話会社の外字と衝突して、そのまま送信すると、トラブルのタネになります。人物の名前の横に、ドクロのマークが出たりしたら大変ですよね。

ところが私が移ってきたころは、これを手動で直していまして、見逃すと怒られたりしたのです。私も注意力散漫なので、けっこう怒られましたが、自分の能力では対処不可能だと思いまして、6000にも及ぶそうした外字を自動変換するマクロを秀丸エディタで作って配布したりしていました。

さらに新聞記事には、独特の決まりがあり、そのまま他のメディアに転用できるわけでもないんですよね。これの処理は、手作業になるため、試行錯誤がありました。

単純な例でいうと、各記事の日時があります。たいていは「昨日」とか「17日」に誰それが、何それをした、という書き方をしているのですが、ネットではその記事がいつ読まれるかわかりません。そのため、「何年何月何日」というふうに書き直す必要があったりします。このあたりも、私は個人的にスクリプトで処理していましたが、手で処理している人がほとんどでした。

それから紙面で見ると一つの塊になっている記事も、実は複数のパーツの組み合わせでできています。メインストーリーを書く「本記」と、補足的な情報を付け加える「サイド」、それから専門家などの談話を伝える「解説」とかですね。これらが出稿データベース上ではバラバラになっていて、紙面で見たような形に戻すには、手作業でコピペをしなければならないことがある。

やってるうちに気づいたんですが、そもそも「転用(英語ではrepurposing、つまり目的を変えること。こっちの方が本質を示しています) 」ということ自体に無理がある。たとえば、新聞記事には(雑誌も同じですが)行数制限があり、最後の1行に文章を収めるため、ものすごい労力を費やしているわけです。

ところがデジタルになると、文字数制限はありません。むしろ大抵の紙メディア向けの記事は、文字数が少なすぎる。出稿データに「預かり」といって、紙面に使わないテキストを置いておく部分があるので、そこにデジタル用の余分な原稿を付けておく仕組みもありますが、書き手が、紙面に出る分に全力を注ぐことは変わりない。

内容面でも課題があります。新聞では、逆三角形で書け、と言います。最初に結論をまとめて、後ろはどこで切られてもいいように書く。

この書き方だと、ネットだとむしろ「ネタバレ」「出落ち」で面白くない。ネットの場合、少しずつ進化はしていますが、読まれたかどうか、人気があったかどうかの指標の基本は、いまだにPV(ページビュー)です。そしてPVを稼ぐ最も効率のいい方法は、文字数をなるべく増やし、ページ数を増やすことです。この観点からいうと、もっと長く書いてほしいのです。

ところが紙面では、そんなに長く書けません。文字を大きくしたこともあって、1面に入る文字数は、むしろ昔より少なくなっています。

では一つの記事でなくて、複数の記事、連載をまとめて「転用」すればいいように思いますが、一つの記事がバラバラに書かれている、ということは、単に文字数が少ないという以上の意味を持っている。

たとえば先程の日付にしてもそうですし、内容面でも「前回、こういう話を書いたが、それを受けて今回はこういう話を書きたい」という「受け」が毎回、書き込まれています。こういう記事を、ただ単にまとめるだけでは、話題の重複が多くなってしまいます。

でも、重複部分を削ると、けっこう字数が減ってしまうんですよね。

逆に長い連載の一部を取り出すと、前回の連載への言及があったり、同じ人物が説明なしで登場したりする。これを修正するのも一仕事です。

都合が悪いのは、文字部分だけではありません。写真にしても図版にしても、新聞紙面に最適化してあります。

しかし、特に図版について言えることですが、今や一般化した高解像度のタブレットやモニターで見ると、そもそも作りが小さい。そして、ネット記事では、画像が死活的に重要ですが、記事につけられた画像の「数」も、「ネット・ネイティブ」の記事と比べると少ない。

要するに「紙媒体向け」に書いた記事をそのまま「ネット向け」に転用しても、最初から「ネット向け」に書いた記事に勝てない、ということが起こるわけです。

ここまでの経験から教訓をまとめますと、どういうことが言えるでしょうか?

従来のパブリッシングのプロセスをそのままにして、単にアウトプットだけデジタルにしても、無理や無駄が生じるばかりで、全体最適化は図れない、ということです。

最適化が図れない、ということは、つまり現場では非常に苦労して「電子化」するはめになり、非効率な仕事を強いられるのです。


電子書籍とは何か

その後、ひょんなきっかけで、会社が電子書籍の事業を手掛けることになり、ニュース配信の仕事から離れることになりました。

電子書籍の配信事業をする会社を立ち上げる過程で、「電子書籍」というものについて、いろいろな方と意見を交わしました。

ある人は、電子書籍とは、電子音楽配信の「音楽」の部分が「書籍」や「雑誌」に置き換わっただけで、本質的には同じものだと言います。

そして日本の電子書籍事業者に必要なのは、とにかく手を組む事業者(出版社)の数をそろえ、コンテンツの量を増やし、合従連衡で外資系に対抗することだと。

つまり電子「書籍」とあるけれど、それはビジネスであり、ビジネスである以上、とりあえずは質より量だと。

しかし、私は――というか、まがりなりにも文字もののコンテンツを作ってきた人間なら、多くの人がそう考えると思うのですが――、こういう考え方に、本能的に違和感を感じざるを得ませんでした。

そもそも、音楽と書籍や雑誌は、同じでしょうか?

確かに、どちらもコンテンツであり、エンターテインメントです。その点では似ています。

ただ、音楽は自分の嗜好やニーズに合っているかどうか、一瞬で判断できるのに対し、書籍や雑誌、特に書籍は、時間をかけないとその良さがわからないことがある、という違いがあります。

書籍には、「積ん読」という、誰かの勧めで買ってはみたけれども、何十年も放置しておく、という独特の風習? もあります。最初パラパラとめくった時は面白くなかったが、数十年後に再読したら興味深く感じられて、寝食を忘れて読みふけってしまった――本にはこういうことが往々にしてありますが、音楽でこのようなことが、頻繁にあるでしょうか?

もっというと、本では、訳がわからないけど目を通しておこうとか、もっとあけすけにいうと、「読んだふり」をするために本棚に並べておく、ということがありますね。こうしたことは、さすがに音楽にはないのでないか。

それから、私の子供時代はアナログ・レコードが全盛で、「音楽を聴く」=「レコードを買う」でしたが、その後カセットテープ、CD、MD、そしてネット配信へと進化してきて、明らかに音楽にリーチするための媒体は便利になりました。最近アナログ・レコードの人気が復活しているといいますが、普通の人から見て、アナログ・レコードがCDや音楽配信に勝っている点は一つもないでしょう。

ネットワークで配信されるようになったことで、音楽の消費のされ方は激変しました。それまでは「アルバム」とか「シングル」とか、流通上の都合で作られた単位でしか音楽を買うことはできませんでした。ところが、iTunesでは一曲単位で試聴し、購入できるので、好きな曲だけを集めて聴けるようになりました。ある評論家は、同じようなことが書籍でも起こる、と予言しました。

媒体だけでなく、聴くための機械も、進化しています。かつてオーディオセットは、居間の一つの壁を占領するほど大きく、レコードを磨き、レコード針を掃除して、いろいろな準備をしてから聴きました。

ラジオというワイアレスオーディオ機器もありましたが、音質が悪く、現在のように、「いつでも、どこでも」どんな姿勢でも高品質で音楽が聴けるようになるには、カセットテープの発明と、ウォークマンを始めとするポータブルオーディオ革命を待たねばなりませんでした。この革命は、iPodなどが切り開き、今はスマートフォンへと舞台を移した、デジタル・ポータブルオーディオへと引き継がれて今日へと至ります。

「オーディオ」機器は高級化し、いまだに一部のマニアの強い興味を引きつけていますが、いま音楽を知り、聴くためのファーストメディアは、YouTubeなどの動画配信サービスと、デジタル・ポータブルオーディオ(アプリ、サービス)の組み合わせであり、その次にライブ(フェス)です。今の若者に「音楽というのは、居間で背筋を伸ばして聴くものだ!」と説教しても、誰も耳を貸さないでしょう。そもそも、音楽の本質はライブにあると考えれば、それ以外のレコードもデジタル配信の音楽も、「偽物」であることにはかわりありません。

つまり音楽の場合、伝達技術の進化は圧倒的で、不可逆です。後戻りするのは不合理ですし、意味がありません。しかし、書籍や雑誌の場合はどうか。

日本の書籍・雑誌の平均的な品質は、世界一とも言われます。グーテンベルクの活版印刷が「革命」と言われていますが、日本ではそれ以前に、そして、活版印刷が日本に紹介されて以降も、木版印刷により、精緻で高品質の印刷物を数多く生み出してきました。

現代日本の書籍・雑誌の品質は、そうした伝統を引き継いで、永年にわたる試行錯誤や技術革新の積み重ねを通じて、高度な水準に達しています。書店でみかける、どの本や雑誌も、工夫がこらされており、理解を阻害するほど読みにくい、見にくい本というのは、探すほうが難しいです。

書籍・雑誌は、読むのに説明も訓練も要りません。ほとんどの人は、誰に教わることなく、本や雑誌を開いて楽しむことができます。製作や流通には、資源やエネルギーを要しますが、読むには必要ありません(多少、カロリーは消費しますが)。

他方、電子書籍はどうでしょうか。まず、読むための機械が必要です。次にアプリのインストールや、使い方への習熟が必要です。

それらがクリアされたとしても、電子書籍アプリやサービスの使い勝手は、紙の書籍に遠く及びません。一番面倒なのが、入会とログイン。購入のためには、クレジットカードやプリペイドカードの登録なども必要。表示に電気を使うので、充電などの手間もかかります。

このあたりのマイナス点は、技術の進化で、多少は軽減されるかもしれませんが、短時日ではどうしても覆せない欠点もあります。紙の出版物の「めくる」という行為に付随する体験が、電子書籍には欠けているのです。

本を手に持って「めくる」という行為により、読者は本の内容の、いわばミニチュア版を頭の中に刻みつけているところがあります。少し具体的に述べてみます。

人は本を読む時、まず、本を目で見て、手に取りますね。この段階ですでに、本はある種の情報を読者に伝えています。分厚い本であれば、内容もたっぷりしている本であることを、薄い本であれば、逆に内容は少ないことを、一瞬で伝えているのです。

加えて上製本か並製本か、あるいはカバーデザインによっても、内容はある程度示されています。このあたりは、編集者の腕の見せどころでもあります。

その上、ページをめくったときの感触があります。自分にとって重要だと思った部分、フィクションであれば、ストーリーの興味深い展開部、社会科学系の本であれば、今まで知らなかったような新事実が示されたような部分は、文字の表層的な意味だけでなく、その時の指の感触を通じて、「あのあたりに、面白い(重要な)記述があった」という記憶となって身体に刻み込まれます。

読んでいる最中にも、ページを押さえる指を通じて、本はいろいろな情報を伝えています。「あと、残りはこのくらいだな」ということが、リアルタイムにわかりますし、かさかさ、というページをめくる音が、読書の速度を伝えています。

このような副次的な情報を仮に「インデックス情報」と呼ぶとすると、紙の本は、「ページめくり」という体験によって、「コンテンツの内容」を「インデックス情報」と一緒に脳に容易にしまいこんでおける、強力な機能を提供している、とも言えるでしょう。

今お話したようなことは、特に科学的なエビデンスがあるわけではありませんが、読書をしている時に、誰でも経験するようなことではないでしょうか? つまり紙の本では、当たり前のように実現している、超基本的な「機能」なのです。

しかし、電子書籍にはこうした「機能」がありません。電子書籍にもカバー(表紙)がありますし、電子書籍ビューワーには読書の進捗状況を示し、移動にも使える「プログレスバー」が用意されています。しかし、紙の本が「ページめくり」という体験で提供している「機能」の水準に、遠く及ばないことは確かです。

もちろん、電子書籍には、電子書籍にしかないメリットもあります。時間と場所を選ばずに書籍や雑誌を買ったり読んだりできる、検索や辞書引きができる……といった点です。しかし現時点でのメリットとデメリットを比べると、電子書籍というメディアに愛着を持っている私の目から見ても、デメリットの方が、差し引きで上回っている感じがします。


 この先、VR(仮想現実)、AR(「拡張現実」と訳されていますが、これも誤訳で、本来は「増補現実」などと訳すべき。augmentとは、本で言えば「増補版を作る」という意味なので)などの技術が進化し、読書体験のある部分を電子書籍・電子雑誌でも実現できるようになるでしょうが、現時点ではまだまだです。

音楽との違いは、もっと深いところにも及びます。音楽では「ライブ」が本来の姿で、CDやデジタルデータはその「偽物(複製)」を提供しているに過ぎないと述べました。私たちがいま普通、「音楽」産業といったときの「音楽」は、基本、「複製芸術」です。

ところが同じことを書籍や雑誌に当てはめるには、無理があります。書籍や雑誌には「ライブ」はありません。作家や執筆者が原稿を書いているところを見せても、それは「本」「雑誌」のライブではありません。

本や雑誌において「ライブ」に相当するのは、本や雑誌を読んでいる行為そのものでしょう。読書体験それ自体が「ライブ」であり「エンターテインメント」であり、読者の満足の対象なのです。そしてこの「読書体験」は「複製芸術」ではありません。

音楽の主体が演奏者(作詞者、作曲者なども含め)にあるとすれば、読書の主体は読者であり、その意味で、本を読む時、誰もが一回限りのライブを演奏しているのに等しいともいえます。

さらに、音楽では、「一曲買い」が可能になったことにより、音楽との接し方、聴き方が進化しましたが、書籍の「一章買い」――もし可能になったとして――に、どれだけメリットがあるでしょうか?

たとえば「『吾輩は猫である』の第三章だけ読みたい」という人やニーズが、まったくないとは申しませんが、音楽において、アルバムやシングルからの「アンバンドル(束ねていたものからの解放)」が生み出したようなメリットが、書籍においては感じられない、ということは指摘しておく必要があるでしょう。前書き、第一章から後書きまで、一つに「バンドル」されているからこそ、人は単なる紙の束にお金を払う。つまり「バンドル」という形こそが「書籍」の本質の一部をなしているのです。

このように、いろいろ考えると、音楽では聴くという「体験」と、聴くための手段である「媒体」「機器」は切り離すことができたのに対し、読書では――少なくとも現段階では――「(読書)体験」と「媒体(紙の本)」とがしっかり結びついていて、容易には切り離せない、ということがいえます。紙の本でしかできないことが、多すぎるのです。

そして現在の「(読書)体験」が、これまで述べたように、現在の紙の本・雑誌だけが主に持つ「機能」に大きく依存し、両者が分かちがたく結びついていたとしたら、そうした「機能」を十全には持たない電子書籍・電子雑誌がどう頑張ろうと、紙の本・雑誌にとってかわることはできない、ということになります。

この事実は、よくも悪くもとらえることができます。いい方にとらえると、私たちが慣れ親しんだ、紙の本・雑誌はそう簡単になくなったりはしない、ということです。おそらく、この講演を聞いている方の目の黒いうちは、ないでしょう。さらに導かれるのは、「電子書籍・電子雑誌は、私たちが知っている形の『読書(体験)』ではなく、別の形の『読書(体験)』を開拓しなくてはならない」という結論です。これは紙の出版産業にとっては朗報です。

他方、悪い方に考えると、「デジタル」「ネット」、あるいは「モバイル」の世界に先行して飛び込み、変化を遂げている音楽、映画、ゲームなど、他のエンターテインメントに比べると、書籍や雑誌は、そうした競技場で、不利な競争を強いられる、ということでもあります。

ともあれ、もう一度、さきほどの音楽の話に戻りますと、音楽では、体験と手段を容易に分離して、後者については、技術的進化に従って、「昔よりは今」「アナログよりはデジタル」の方が、一部のマニア層を除いて、ユーザー体験は向上した、とはっきりいえます。

だから音楽の電子配信事業者が取り組むべき課題は、ラインアップとユーザーベースの拡大、アプリやサイトの機能の向上……と明確です。

しかし、電子書籍・電子雑誌に関していえば、今示したように、紙の書籍・雑誌に対して、少なくとも現在の電子書籍・電子雑誌が勝っている点は、あまりないのです。逆に劣っている点の方が多い。だからただ単に提供する点数を増やしたり、紙の本をやみくもにそのまま「電子化」したりしても、音楽配信のような成功は望めない。私は2010年の当時から、そう考えていました。

出版は、音楽や映画、ゲームとは違うのです。

そもそも「電子書籍」「電子雑誌」という言葉自体が、ミスリーディングなのだといえます。「電子書籍」「電子雑誌」という言葉からは、「書籍」「雑誌」という「媒体」だけを電子的なものに置き換えるという印象を受けます。そして、そのことによって、あるいは、そのことだけで、まるで新しい産業が、新しいメディアが立ち上がるかのような錯覚を与えてしまいます。

しかしそれはありえません。「電子書籍」が「書籍」の、「電子雑誌」が「雑誌」の単なる媒体の置き換えだとしたら、これまで述べてきたことから明らかなように、それは読書体験の劣化にしかなりません。今すでに優れたものがあるのに、なぜ劣化バージョンにスイッチする必要があるのでしょうか?

こう考えると、電子書籍と電子音楽配信とは同じには捉えられない、ということがわかります。再度まとめますと、理由の一つは、書籍は(複製)音楽より複雑なメディアであること、もう一つは、書籍においては、書籍自体がいまだに優れた媒体であり、読書体験とあまりにも密接に結びついているため、音楽より媒体進化によるメリットが少ない、ということです。

そうであるならば、電子書籍とは何なのか。どうとらえるべきなのか。


「デジタル移行」としての電子書籍

正直、2010年当時は、もやもやとしたアイデアが浮かんだだけで、自分でも、きちんとした結論に至ることはできていませんでした。しかし、それから5年の月日が流れ、その間に私の考えも、多少まとまってきました。

先に、「デジタル移行」ということを申しました。実はそれこそが、ある意味で「電子出版」の正体だと思うのです。

2007年のiPhoneの登場、2010年のiPadの登場で、人々が情報を得たり、エンタテインメントを楽しんだり、コミュニケーションをしたりする手段は、劇的に変化しました。

新しく、より安価で手軽に使えるコミュニケーション経路が提供されたことで、それ以外の経路は、相対的に古臭く、コスト高で難しいものに感じられるようになっています。

たとえば、いま会社に入ってくる新入社員のほとんどは、パソコンが使えません。そもそもキーボードのブラインドタッチ(タッチタイピング)ができません。

これに対して、「パソコンが使えないなんてけしからん!」と叱ったり文句を言ったりするのは簡単ですが、要するに昔はパソコンがなければできなかったことが、今はほとんどスマホでできるようになっているのだから、当然のことにすぎません。

彼らから見れば、フリック入力もできない人間の方が、時代遅れなわけです。

ましてや、紙のゲラやらファクスの洪水になっている今の紙の出版の世界。「やっぱり紙が一番」と言ってる出版人。こういう業界を見て、彼らがどう思うか。

それはさておくとしても、彼らにとって、あらゆる情報やエンターテインメントの窓口は、スマホになっています。

人間を取り巻くメディアの状況を、「メディア環境(メディアスケープ、メディアスフィア)」あるいは、「情報環境」などと呼ぶことがあります。

自然の環境と同じように、メディア(情報)環境は、人々の意識、価値観、行動様式に影響を及ぼします。

雨の多い地域の住民と雨の少ない地域の住民とでは、文化や生活様式に違いが出るのとちょうど同じように、パソコンもCDもなかった時代に育った世代と、スマホと音楽配信が当たり前の世代とでは、ものの考え方、捉え方に違いが出るのは当然です。

雑誌の黄金期、映画の黄金期、テレビ黄金期、パソコンの黄金期……などなど、私たちは、過去にさまざまなメディア環境を体験してきましたが、今のメディア環境が、スマホやタブレットなど、スマートデバイス主導で構築されていることは、紛れもない事実です。

スマートデバイスは、それ自体がメディアであるだけでなく、高速ネットワークと地理情報、ライフログ(行動履歴)、ヘルスケア情報、近距離通信と組み合わさることで、電子コンテンツ(書籍、雑誌、映画)、ゲーム、コミュニケーションなど、他のあらゆるメディアを飲み込んで、「メディアのメディア」、「メタ・メディア環境」ともなっています。こうしたメディア環境の激変の中で、音楽、映画、電話、通信・放送、ゲームなど、あらゆるメディアが、変化を迫られています。

変化が及んでいるのは、メディアだけではありません。他のあらゆる産業も、多かれ少なかれ影響を受けています。たとえば、航空産業がいい例です。

たとえばほんの十年前くらいに、飛行機で海外旅行に行こうと思ったら、旅行会社のカウンターへ行って、航空券とホテルを手配してもらうのが一般的でした。

ゴールデンウィークや、年末年始の旅行の予約シーズンになると、旅行代理店の店頭は、どこも混み合っていたものです。

予約がとれたら、航空券とホテルの予約券を受け取ります。客はそれを、旅行の終わりまで大事に管理しておく必要がありました。それらの書類をなくしたら、飛行機に乗れずホテルに泊まれず、旅行ができなくなるからです。

ところが、今、旅行をめぐる風景は、様変わりしました。予約も支払いも、ネットですべて済ませられるだけでなく、航空券やホテルの予約券も、Eチケット化され、スマホを持っていれば、紙のチケットを持ち歩く必要は、ほとんどなくなりました(日本では、「メールを印刷してお持ちください」などというお願いがあったりしますが、海外ではメールで基本大丈夫です)。さらに海外では搭乗券もペーパーレスが一般化しています。

どうしても紙の航空券や搭乗券がほしいという人は、希望すれば紙のチケットをもらうこともできるようですが、追加料金を請求されることもあるようです。

つまり、どういうことかと言うと、スマホ活用を前提とすることで、あらゆる側面で、効率化が図られている、そのことで航空会社も利用者も、コストダウンの恩恵を受けている。他方、スマホが「環境」の一部となっているために、スマホのノンユーザーは、むしろ切り捨てられ、余分なコストを払わされているという構図です。

注意してみますと、似たようなことは、観光、鉄道、ホテル、タクシー、文具など、広範囲にわたって起きていることがわかります。

こうした変化を、より大きな流れでみれば、その起点は、コンピューターが普及し始めた1970年〜80年代にあり、決して、今日明日に起きたことではありません。

しかし、これまで、出版業界は、こうした変化とは比較的無縁でいられました。紙の出版物というメディアが、あまりにも優れていたため、新興メディアの侵攻を許さなかったのです。

ところが、かつてのスーパーコンピューターの性能を手のひらに乗せてしまった「スマートデバイス」の登場で、出版の世界も、いよいよ自己変革を迫られているのです。

何もしなければ、「出版」は、相対的に劣ったメディアになってしまう。それを防ぐには、新しい環境に自ら対応しなければなりません。今こそ、本格的な「デジタル移行」そして「デジタル・ディスラプション」が必要なのです。そのために出された答えの一つが、「電子書籍」だったのではないか。この5年間に起きたことを観察しているうち、私はそう思うようになったのです。


電子書籍は概念でなく運動

改めて、ここで私の考えを明確にしましょう。

電子出版とは、単に媒体を物理的なものから電子的なものに置き換えた出版ではなく、デジタル/ネットワークの生み出した新しい電子メディア環境に最適化した、新しい出版のあり方(の模索の動き)を指します。それは固定された「概念(コンセプト)」というよりは、連続的に変化する「過程(プロセス)」であり「運動(ムーブメント)」です。

この意味での電子出版の中には、執筆、編集、組版、校正、宣伝、流通、販売、批評、といった出版のサプライチェーンにおける、従来の出版のプロセスすべてが含まれ、そしてそれ以外の、今この時も生まれつつあり、将来生まれるであろう、新しい出版のやり方のすべても含まれます。

電子的でない出版も、プロセスとしての「電子出版」に含まれることに注意してください。たとえば、複雑な組版が必要で、現在の電子書籍の仕様では、十分な読書体験を実現できないコンテンツについて、敢えて電子書籍化を諦めるという決断を下す。これも立派な「電子出版」です。

また、読者の側が、紙の書籍と電子書籍を比べて、自分にはこちらの方が向いてるから、と紙の書籍を選んだり、あるいは目的に応じて紙の書籍と電子書籍を使い分けたりする、というのは、「電子出版」に含まれます。この意味では、電子書籍を読まないという選択も、「電子出版」なのです。大切なのは、現在のメディア環境において、読者に最適な選択肢を提供できているかどうか、です。

他方、企業として、あるいは業界としての表面的な積極姿勢をとりつくろうため、現在の電子出版に向いてないコンテンツを無理やり「電子化」してみるとか、あるいは知識・ノウハウの不足により、低い品質の電子書籍を提供してしまうといったことは、むしろ「電子出版」ではありません。

あるいは、私の経験のところで述べたように、アナログに最適化されたパブリッシングのプロセスを根本的に変革することなしに、いつまでもずるずると旧来のやり方を踏襲してすること、旧来のやり方を変えず、アナログ向けのコンテンツの「コピペ」でしかない「電子化」作業のために人を雇ったり、投資したりするのは、「電子出版」の望ましいあり方ではありません。

「電子出版」において重要なのは、個々のコンテンツの変化ではなく、むしろ出版を支えるプロセスの変革です。出版のプロセスの中心には、「編集」があります。

ここで今日のテーマとつながってきますが、「編集」の変革がない状態で、ただ「出口」だけデジタルにしただけではだめなのです。

そうではなく、新しいメディア環境に向けて、従来の過程をゼロから見直し、大事なものは残し、不要なものは捨てる、スクラップアンドビルドの意識が必要です。

もしそれに失敗すれば、出版は相対的に見て時代遅れな、使いづらい、コスト高な、魅力のないメディアに転落してしまうでしょう。

紙の出版は、この後100年以上は続く、と私は述べました。ということは、私の定義した意味の「電子出版」も、あと最低100年は続く、ということを意味します。

今、私たちが目にしているような姿の「電子出版(電子書籍、電子雑誌)」は、過渡期の性質を、色濃く宿しています。その多くは、10年後、20年後には姿を消しているかもしれません。

しかし、「プロセス」としての「電子出版」は残ります。これは間違いありません。

この意味の「電子出版」において、編集者は何を考えるべきか、するべきなのか。今後はそれについてさらに深めてみたいと思います。

本稿は講演内容を書き起こしたものです。
文責:AJEC


【おことわり】
この後の本編は、講演の出席者の方への限定公開とさせていただきます。
ご希望の方は、daihyo@setsuwa.co.jpまでご連絡ください。
折り返し、公開用URLとパスワードをお送りします。


(平成28年7月14日(木)AJEC編集講座での講演より)

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