私はグローバルな時代だからこそ、企業で問われるのは英語力ではなくて、むしろ国語力だと思っています。公用語を英語にしたところで、国語力がなければ、語彙力を増やしたり文化的背景を説明することができません。
ですから、読書教育、「読む」「書く」という教育というのは、これから大きなトレンドになっていくと思います。企業で求められる「コミュニケーション能力」も、「読む」「書く」「話す」「聞く」の4つを連携して初めて磨かれていくものだと私は思っています。今、ケータイやパソコンで「読む」「書く」という行為はされてはいるのですが、そこで読んでいるのは「文章」ではありません。文章を読まずして、文章を書くことはできません。これは学生だけではなく、社会人にも「読む」「書く」を鍛える教育が求められていると思います。
私はこの2年間、ある大学で就職活動の講座の講師を務めさせていただきました。その時、学生に今まで感動した本を挙げてくださいと聞いたときのことです。それをランキングにすると、一番人気は東野圭吾さんで25%。2番目は村上春樹さんで20%。これと同数が漫画でした。あとは司馬遼太郎さんが10%、松下幸之助さん5%、ドラッカー5%と続きます。
このラインナップをみて、私は愕然としました。日本の高等教育にいる人間がこんなに教養がなくていいのだろうか? と感じたからです。この教養のなさが、社会に出てからのボトルネックにつながっているんだと思います。これでグローバル化に対応する以前の問題ではないでしょうか。
手っ取り早く「読む」「書く」技術を上げるには、大学で講師やってみて得た結論なのですが、「翻訳力」を磨く訓練をしていけばいいのではないかと思います。
たとえばこんなワークをやってもらうとよいです。
以下の英文を訳してください。
「I am the greatest.」
これはモハメド・アリの言葉ですが、皆さんだったらどう訳しますか?どのくらいバリエーションのある日本語にできるかというのが、表現の出発点ではないかと思います。これをそのまま訳すならば、「私は偉大である」というふうになってしまいますが、モハメド・アリがどんなシーンでこの言葉を発したのかというのを想像しながら訳す必要があります。モハメド・アリは米国のボクサーだけど、イスラムの思想の持ち主という背景を知っていれば、また訳文は変わってきます。私は最初「私は神である」と訳しましたが、その後「我こそは偉大なり」というふうに訳すこともできると思いました。
こういった、非常に細やかな差異のある表現をする必要があるんですね。翻訳力といっても「言い換え力」ということだと思うのですが、そういったトレーニングをすることで、表現力が磨かれ、話す言葉も書く言葉も繊細になってゆくのです。
日本は自己表現する場が社会人になるまで、人生のステージのなかで少ないんですね。だから、社会に出たときにいきなり自己表現しろと言われても戸惑ってしまいます。いきなり、400字の文章やエッセイを書きなさい、800字で論文を書きなさいと言ってもハードルが高いですから。だからこういった短い簡単な文章で磨いていく方法は有効だと思います。
最後になりますが、改めてソーシャルメディアの時代は「言葉の力」が問われているということを結論付けたいと思います。。読者が「読み」「書き」のリテラシーを突きつけられていると同時に、読者は情報を自分なりに「編集」できる時代でもあります。今や発信者と受信者の垣根がなくなってきています。
言葉の力をどうやって利用するのか。それをどうやって活かしていくのかということが、どの人にとっても試される時代ではないかと思います。
だからこそ、これからの出版では良書を生み出すことの価値がもっと評価されてくると思います。「質」というものを考えると古典を見れば一目瞭然です。古典の持つ文章構築世界は誰が読んでも驚くほどの質を持っていて、脈々と受け継がれていく理由はその「質」にこそにあります。
一方で現実はソーシャルメディアの影響もあって、単文や単純であるということが求められています。体裁はマーケットの求める姿をしながら、質の高い内容を届けられるかというのが、これからの出版社・編集者に求められているのではないでしょうか。
この原稿は6月24日に行われた経営合宿の講義を基に再構成したものです。